第三十五話 地方公演
劇団を運営しているY夫妻から聞いた話。
その日、Y夫妻は地方公演のため、劇団員と共に車で、とある劇場に向かっていた。
途中、嫌なものを見た。事故現場である。山道にさしかかっており、車通りは少なくなっていた。ついスピードを出しすぎてしまったのか、一台の乗用車が電柱に突っ込んでしまっていた。車の前部はV字に凹み、電柱を抱き込んでいるように見えた。かなりのスピードで突っ込んだのだろう。
事故が起きてから、まだそう時間はたっていないようだった。外にいる人のようすから、救急車待ちであることが、なんとなくうかがえた。
Y夫妻も劇団員も、事故車の具合から「これは亡くなってるかも……」と思ったそうだ。
劇場に着き、リハーサルを始める。Y夫妻は何も感じなかったが、霊感の強い劇団員は「なんか、ここ、ヤな感じがする……」と言っていたそうだ。確かに、霊感に縁のないY夫妻も、ラップ音らしき音は聞いたと言う。
ともかく、リハーサルはなんとか無事に終了。迎えた本番も、特に問題なく進行していた。
じつはこの時の演目には、主人公が幽霊に群がられるシーンがあった。もしかしたら、劇団員の言っていた「ヤな感じ」も、目撃した事故現場とこのシーンが重なって、そんな気がしただけかもしれない。
だが、舞台袖からようすを見ていたY夫妻は、妙な違和感を覚えた。稽古は何度も見ているし、初めての演目でもない。だからこそ感じる違和感だった。
主人公に群がる幽霊が、ひとり多い――
舞台は無事に終わったが、あの場面でひとり多かったことを感じたのは、Y夫妻だけではなかった。しかし本番中のことで、誰もはっきりとは確認できていない。
「やっぱり、あの事故で亡くなった人がいて、ついて来てたのかな……?」
「もともとあの劇場にいる霊かも……」
そんなことを囁きあったそうだが、真相はわからないままだ。
吹き消す蝋燭は、これで三十五本となりました。
第三十四話 電話回線のドッペルゲンガー
「ドッペルゲンガー」とは、簡単に言えば「もうひとりの自分」である。「三回見ると死ぬ」などと囁かれることもあるが、真偽のほどは定かでない。
同僚Nは、過去2回、もうひとりの自分を感じたことがあると言う。「見た」のではなく、もうひとりのNは、電話の向こう側にいるらしい。直接話したことはなく、知人が、もうひとりの自分と話したのだそうだ。
一度目は、娘がまだ幼稚園に通っていたころだそうだ。ママ友のYはある日、N宅に電話をかけ、「娘さんと遊びにいらっしゃいよ」と声をかけたそうだ。Nは「じゃあ、2時に行くね」と答えたそうだ。しかし、約束の時間を過ぎてもNは来ない。夕方にもう一度電話をかけたが、留守だった。
翌日Yは、Nに直接「昨日はどうしたの?」と尋ねた。Nは面食らった。「なんのこと?」と問い、前日の経緯を聞いたのだ。Yが最初に電話をかけた時間、Nは確かに娘と共に自宅にいた。しかし、Nの記憶でも娘の記憶でも、電話は鳴っていなかった。ましてや受け答えなどしているはずがない。夕方は買い物に行ったので、留守だったかもしれないが。
「間違い電話しちゃったんじゃないの?」とNは言ったが、「いや、確かにあなたの声だった」とYは言うのだ。
ふたりは、狐につままれたような気持ちだったそうだ。
二度目は、娘が小学校に上がってからである。望んだことではないが、NはPTAの役員になった。
ある日、同じく役員のOが、Nに電話をかけた。
「急なんだけど、明日の1時に、役員で集まることになったの。来られる?」
Nは「うん、大丈夫よ。1時ね」と答えたそうだ。しかし、これもまた、Nはまったく知らなかった。顔を合わせたときに「来なかったね」と言われて、初めて経緯を知ったのだ。このときも「確かにあなたの声だった」と言われたそうだ。
それから二十数年、三度目は、まだ無いそうだ。
ただ、「どうもドッペルゲンガーがいるらしい」という思いが、頭の隅に今もあると言う。
蝋燭三十四本目、吹き消します。
第三十三話 おかしなボール
教習所へ通っていたころだから、二十歳くらいの話だ。教習所へ向かう途中に、バッティングセンターがあった。時間調整のためや、嫌な教官に当たってしまったときの憂さ晴らしに、私はときどき、ここに寄った。
ある日のこと、私はいつものように、一番左のボックスに入った。野球は遊びや体育の授業(あれはソフトボールか)でやっただけだが、剣道をやっていたこともあってか、打撃はまずまずである。毎回同じようなスピードで、まっすぐ投げられる球なら、だいたい打ち返すことはできた。バッティングセンターでは、他人のバッティングを後ろで見ている人がたまにいるが、この日もふたり、そうした人が私を見ていた。
何球目だったか。私の視界に、高くバウンドしているボールが映った。網で覆われたセンターの真ん中を、ゆっくり横切るように、ぽーん、ぽーんと跳ねている。
一番右側のボックスの人が打ち損ねたボールだろう。そう思った。
しかし、バットがどんな当たり方をしたら、ボールはこんなバウンドを見せるのか? 私は次の球を待ちながら、ぼんやり考えていた。右利きなので、左側の打席に立つ私からは、高くバウンドするボールがよく見えるのだ。
「……おかしい」
私は心の中でつぶやいた。ボールのバウンドは、だんだん低くなっていくものだ。なのにあのボールは、同じ高さを保ちながら、少しずつ私のコースに近づいて来る。
私のふたつ隣のボックス前を通過する辺りで、私は思った。
「あ、次に投げられるボールに当たるぞ」
よそのボックスで打ち損ねたボールが、自分のボックスのボールにぶつかる確率は、どのくらいのものだろう? めったにないことに違いない。
私の感は的中した。
私に投げられたボールに、バウンドしてきたボールは当たった。真正面で当たった訳ではないのだが、ボールのコースをわずかに反らす程度の衝撃はあった。ほぼストライクで投げられるボールはコースを変え、私の顔目がけて飛んできた。
先ほど書いたが、私には剣道の心得がある。動体視力は、そこそこ鍛えられていた。しかも「当たる」とわかっていたボールだ。充分に心構えもできていた。私はわずかに上体をゆらし、ボールを躱した。
後ろで一部始終を見ていたふたりから「おおっ!」という声が上がったのを覚えている。
しかし、避けられたからよかったものの、危険なボールであったことは間違いない。あのバウンドしていたボールは、どこから来たのだろう? なぜバウンドは低くなっていかなかったのだろう?
私に投げられたボールに当たった後、あのボールがどこへ行ったのかまでは、さすがに追いきれなかった。
三十三本目の蝋燭、吹き消します。
第三十二話 賽の目
作家のT先生から聞いた話である。
ちょっとした集まりで、知り合いのFが妙なことを言い出した。
「ぼくね、すごいことができるようになったんだよ」
T先生のほかにふたりの人がいて、Fの話に耳を傾ける。
Fは小さめのサイコロを4つと、湯飲みをひとつ取り出した。最初から皆に見せるつもりで用意してきたのだろう。
Fは丁半博打のようにサイコロを湯飲みに入れ、テーブルの上に伏せる。そして滑らせるように、くるくると湯飲みを回した。湯飲みを開けると、サイコロの目はすべて赤い点、1である。何度やっても、すべて1が出る。しかし、ほかの人がやってみると、当然のことながら、目はばらばらだ。
皆はFが、手品を習得したのだと思ったのだが、T先生は「なんだか嫌な予感がした」と言う。「この人、危ない」と思ったそうだ。
それからいくらも経たないうちに、Fが精神を病んで入院してしまったと聞いたそうだ。
賽の目をすべて1にする妙技が、それに関係しているかは定かでないが。
三十二本目の蝋燭を、吹き消します。
第三十一話 井戸の老婆
友人IとFが福岡に住んでいたころの話だから、10年ほど前だろうか。
暦の上では夏は過ぎたが、まだまだ暑い日のことである。ふたりは川沿いを車で移動していた。何度も通っている道だ。
突然、運転をしていたFが悲鳴を上げた。古井戸の手前である。
Iには見えなかったが、Fには見えた。古井戸から、老婆が出てきたのである。それだけでも異常だが、老婆の顔は、明らかに大きかった。そしてなにか叫んでいるようであった。
Fは何度か、この世の者でない人を見た経験があった。
「危ない! 引きずられる!」
咄嗟にそう感じたFは、老婆から視線を反らし、前だけを見ることに集中したそうだ。
お彼岸の中日には、地獄の蓋が開くと言う。水の近くには近寄るな、と言う人もある。
その日は、ちょうどお彼岸の中日だった。
三十一本目の蝋燭、吹き消します。
第三十話 三俣のお地蔵さん
知人Fが高校生のころの話だ。Fには兄がいるのだが、悪性リンパ腫で入院、放射線治療、手術を繰り返していた。医者から「覚悟はしておいたほうがいい」と言われたそうだ。
そんなある日、Fの夢に、亡くなった父が現れた。大きな扉があり、扉には後光が差していた。荘厳な空気の中、扉が重々しく開き、光の中から父が現れた。
「線路の脇の小さな祠に、お地蔵様がいる。お地蔵様に手を合わせ、兄の回復を祈りなさい」
亡き父のお告げであった。
Fは姉にも兄にもこのことを話した。
「そういうお地蔵さん、知ってる?」
「それって……三俣のお地蔵さんじゃないかな?」
姉がそれらしきお地蔵様を知っていたので、兄弟で行ってみると、まさに夢のお告げ通りの祠があるではないか。手を合わせ、兄の回復を祈った。
そのご利益なのだろうか? 兄は、治療の影響は少し受けたものの、元気になった。30年以上経った今も元気で、お酒も飲んでいると言う。
しかし、亡くなったお父様は、どれほど徳を積まれた方なのだろうか? まさに仏界から降臨したかのような登場である。
三十本目の蝋燭、吹き消します。
第二十九話 仏間の気配
Nが高校生のときの話。Nは妹とふたりで、ミュージシャンを夢見ていた。当時は北海道在住で、コンテストにも何度か出場したらしい。
ある晩、姉妹はふたりで留守番をしていた。居間で、曲の練習をしていたそうだ。Nはギターを弾き、妹が歌う。
と、妹がふっと歌うのをやめた。Nもギターを弾く手を止める。
「なんか、音がしない?」
妹は、隣の仏間から物音が聞こえたと言う。言われてNも気づいたが、外にいる飼い犬が、やけに吠えている。
これは、もしかしたら、泥棒が入っているのではないだろうか?
Nは、小遣いを貯めてやっと買ったギターを盾に、恐る恐る襖を開けた。しかし、仏間には誰もいない。
気のせいだったとホッとして、練習を再開。するとやはり、仏間で気配がする。ギターの音色の影で、誰かが歩いているような音が聞こえるのだ。気にしてみると、片足を引きずっているように思われるほど、確かに聞こえる。けれど、演奏を止めると、足音も止む。襖を開けても、誰もいない。
少し怖くなっているところに電話が鳴り、姉妹は跳び上がった。
それは、母からの電話だった。
「おばあちゃんがね、今、息を引き取ったよ」
その日、Nの母は、入院中の祖母の見舞いに行っていた。いや、看取りに行っていたと言ったほうがいいか。
Nも、妹もも、その知らせを受けて気が付いた。入院前まで一緒に暮らしていた祖母は、片足が不自由で、引きずるように歩いていたではないか。
おそらく仏間には、祖母がいたのだろう。亡くなる前か後かは分からないが、帰って来たのだろう。
余談だが、N姉妹が何度か出場したコンテストでは、毎回同じ人が優勝していた。吉田美和。「ドリームズ・カム・トゥルー」のボーカルである。
その話を聞いた人は「そりゃ、勝てないよ」とは言うが、N姉妹がどの程度まで戦えていたかまでは聞かない。大人の礼儀である。
二十九本目、吹き消します。