第五話 入ってきた気配
私は怖い霊体験をほとんどしたことがないが、これは一番怖かった体験である。
私が浪人生だったころの話。ちょうどバブル期で、父が経営する工場も景気が良かった。隣の家が空き家になったので、行く行くは工場を広げるつもりで、父はその家を買った。浪人生の私が勉強部屋として使うにはちょうどいい環境だったので、1階の部屋に机を運び込んだ。
夜中に勉強をしていると、毎晩0時に「バンッ!」という音がする。
机の向かいはすりガラスの窓があり、その向こうには業務用の冷凍庫が置かれていた。その冷凍庫を、平手で叩くような音だ。
当時、犬を飼っていた。冷凍庫を叩くには、犬小屋の前を通らなければならない。人懐っこい犬ではなかったので、慣れている人でなければ小屋の前を通る際に、必ず吠えられるだろう。吠えられずに冷凍庫を叩けるのは、たぶん、人ではない。
私はそういうことを気にしないタイプなので、「バンッ!」と鳴ると「0時なんだな」と思い、時報代わりにしかとらえていなかった。
ある夜、私は体調が悪く、早めに布団を敷いた。横になったものの眠りにはつけず、ただ目を閉じていた。
バンッ!
「あ、0時だ」
この晩もそう思ったが、いつもとようすが違った。窓の向こうに気配がする。その気配は、閉まっている窓をすり抜けてきた。部屋に何かが入ってきたのだ。
荒い息が聞こえる。全力疾走の後の息切れの荒さではなく、なにか感情を抑えようとする荒さに感じた。
「あれ? おかしい。これはまずい」と、目を閉じたまま思った。
「ハァァァッ、ハァァァッ」という息は、窓際からだんだんと近づいて来る。机の上から音もなく畳に下り、低い位置に頭を置いて、だんだんと近づいてくる。獣ではなく、人が、蜘蛛のような態勢で、じりじりと近づいて来るように感じた。
ハァァァッ、ハァァァッ、ハァァァッ
今までにない恐ろしさを感じ、私は心の中で題目を唱えた。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……
ハァァァッ、ハァァァッ、ハァァァッ
息はついに、私の枕許に来た。荒い呼吸音はするのに、耳に息がかかることはない。私は怖くて、目を開けることができなかった。
荒い息は私の耳許まで達し、しばらくして言った。
「……ちくしょう……」
それは、憎々しさと諦めが混じったような、男の声だった。
私ははじかれたように上体を起こし、目を見開いて辺りを見たが、闇の中にうっすらと浮かぶいつもの部屋しか見ることができなかった。
それ以来、深夜0時に冷凍庫を叩く音は止んだ。
蝋燭五本目、吹き消します。