第三十七話 会釈を返した母子

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「もう20年以上前の話だけど……」と、Sは語り始めた。
 当時、音響の仕事をしていたSは、地方公演のスタッフとして全国いたるところに飛び回っていた。中でも広島には何度も訪れたそうだ。
 ある時、いつもの宿が取れず、数名のスタッフがホテルに泊まることになった。Sは役者Oと相部屋になった。相部屋とは言っても、その部屋は6畳間がふたつあったので、ゆったりできると、少し嬉しかったそうだ。
 その夜、仕事が終わり、いったん部屋に引き上げたSは、強い眠気に襲われた。そんなに疲れたわけでもないのだが、知らず知らず疲れが溜まっていたのかもしれない。少し横になることにした。
 ふと気がつくと、隣の部屋から人の気配がした。隣とは襖で隔てられるようになっていたが、襖は開いていた。そこに、ふたりの人影があった。どうやら、女性と子供のようである。母子だろうか? ふたりは正座をしていて、Sの方に体を向けていた。相部屋のOは、まだ戻って来てはいないようだった。
 たまに、スタッフが部屋に客を呼ぶことがある。母子で訪れるとなると、この辺りに住むOの親戚か友人だろう。さすがに寝たままでいるのはまずいとSは思った。しかし、強い眠気のため、満足に目を開けることもつらい状態だ。
 ともかく軽く会釈をした。すると母子も、会釈を返した。それで安心して、Sは眠りに落ちた。
 翌朝、Oに「昨日、部屋に誰か呼んだ?」と尋ねたが、誰も呼んでいないし、部屋に戻ったときには寝ているS以外、誰もいなかったと言う。
 Sに会釈を返したあの母子は、いったい誰だったのか? それはわからないままである。

 三十七本目、吹き消します。

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